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20.「古寺院区画」の尼寺はどこに計画されていたのか? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって

20.「古寺院区画」の尼寺はどこに計画されていたのか?
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「古寺院地区画」が天平13年(741年)2月の国分寺建立の詔を受けて、尼寺とセットでの計画を前提としたものだと考えると、その時点で尼寺は東山道の東に計画されていてもおかしくない。(※聖武天皇による勅命の変遷は07項を参照

尼寺と僧寺中枢部の位置関係
現存遺構の尼寺が造営される以前に、東山道の反対側に計画された時期があるのではないかと考える理由として、18~19項で2つの理由を挙げた。

①立地が浸水危険地帯であり、余程深い事情と担保がない限り選地されない場所であろう。
②辺と中軸線の方向がことごとくチグハグしている尼寺伽藍地の不思議な形は、東山道の反対側の角の形と一致しており、鏡で写したような関係。

理由はこれ以外にもある。古寺院地区画溝「A-D」はいつ掘られたものかということを考えると、「740年6月七重塔建立の勅命」から「741年2月国分寺建立の詔」までのわずか8ヶ月の間に選地・測量・計画決定・着手にまで至ったとは思えない。すると「A-D」の掘削は741年2月以降のはずで、それなら必ず「尼寺とセットでの計画」を前提とした溝であるはずだ。

ならばその時、尼寺はどこに計画されていたのか?

仮にその場所が東山道の東側(水色の枠の場所)だったと仮定してみよう。すると、「古寺院地区画」の中枢部中軸線と仮想した線(水色線)から「C」までの距離と「J」までの距離はほぼ等しくなる。これは現存遺構の僧寺金堂から「C」までの距離と「M=尼寺南西角」までの距離が等しいのと同じ関係だ。「水色線上の僧寺金堂」と「水色枠の尼寺金堂」は400m以上離れており、現存遺構における金堂同士の距離と大差ない。現存遺構は「道路」を挟んで僧寺と尼寺を隣接させ、「古寺院地区画」においては「溝」を挟んで隣接させる計画だった、との推理が成り立つ。「A-Dの溝」はそのために掘られた溝ではなかったか。



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19.尼寺伽藍地の不思議なかたち [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって

19.尼寺伽藍地の不思議なかたち
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200m四方ほどの尼寺伽藍地は、辺と中軸線の方向がことごとくチグハグしている。創建時は基壇を持たない仮設的な金堂が建てられ、後年、金堂と中門のみ立派なものに建て替えられた際、中軸線の不整合が生じたものと考えられている。また、伽藍地の不思議な形は、東山道の反対側の角の形と奇妙に一致している。

奇妙な一致
尼寺伽藍地のかたちは何とも奇妙だ。

①尼寺伽藍地は歪な四角形をしており、東辺が東山道に沿わずに、北へ上がるほど道と離れて行く。
②伽藍地南辺の溝は、西へ行くほど中枢部区画溝の南辺に近づいている。

また、中枢部の中軸線の向きもチグハグしている。
①復元表示されている中門跡と金堂跡の中軸線は西偏2度30分だそうだが、尼坊の向きや中枢部東辺・西辺の向きと一致していない。
②その中門は建て替えられたもので、古い中門が現存遺構より少し西寄りに建てられていたと考えると、尼坊の向きや中枢部東辺・西辺の向きと合致しそうだ。古い中軸線は西偏1度前後か。中門とともに金堂も建て替えられたと考えられる。

左の地図のピンク色の伽藍地が現存の遺構だが、この形、鏡で写すようにして左右を反転させると、僧寺寺院地南西の角にピッタリはまってしまいそうだ。すると尼寺は当初、僧寺寺院地南西の角に「水色の枠」の形で計画されていたものを鏡に写すように左右反転させて東山道西側に遷したのではないだろうか。

尼寺用地は治水上、決して安全が保障される場所ではない。「仏の加護が必ず働く」というよほどの確信でもない限り、こんな場所に寺院は建てられないはずだ。
現存する遺構の尼寺は、鏡の中に像を結ぶ「写し」として、この場に遷されたのではないだろうか。伽藍地の辺の方向と中軸線の方向がチグハグしているのは、鏡のように反転させて遷したことによって生じたと考えられないだろうか。

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18.尼寺の場所は浸水危険地帯では? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって

18.尼寺の場所は浸水危険地帯では?
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かねがね不思議に思っていたことがある。尼寺の北側と北西側は土地が低く湧水に覆われた沼地のような場所だったはずだ。北西の湧水群が大出水した際、尼寺伽藍地の一部(特に尼坊の場所)は、浸水を免れられない場所に当たっていたのではないだろうか。この場所に何故、あえて寺院を作ったのだろうか。

黒鐘の崖は典型的な大湧水地の地形
尼寺の北西側、現在の黒鐘公園を北から西にとりまく崖線は北西側に深くえぐれており、こうした谷戸は豊富な湧水によって浸食された典型的な地形だ。その黒鐘の谷戸からは、近年まで2つの湧水が湧いており、その一つは今でも多雨季になるとわずかに湧出し、かつて沼地だった名残のような浅い池に流入している。おそらく古代は、北西に切り込んだ崖の裾野にたくさんの湧出口があり、現在の黒鐘公園一帯は沼地のようなところだったと思われる。

大量湧出した時、尼寺はその流れを避けきれたのだろうか。黒鐘公園の奥まった場所から開口部側を見渡すと、地面は緩やかながらも南東側が低くなっている。尼坊伽藍地北側の草原には西から東にむかって、河床のような窪地の地形が残っている。ここは今でも水が溜まりやすく、排水用のマンホ-ルが設置されている。この窪地は東への流れの名残だろう。また、現在の地形図の等高線を見ると、湧水の流れは尼寺伽藍地内の西側を通って南へも流れていたのではないかと思われる地形だ。高い基壇を持つ金堂はともかくとして、流れに近い尼坊あたりは浸水したのではないだろうか。

尼寺の周囲には、溝が並んで3本切られている。2本は塀の外、1本は塀の内側という三段構えだ。出水対策のためだろうか。研究者たちはこの溝を、寺院中枢部の基礎を作るための土を掘った跡だと考えられているらしい。しかし、中枢部の基礎を作る土を確保するために、寺院の塀の内側まで掘るものだろうか。

いずれにしても敢えてこの場所に寺院を作るには、余程深いわけがあったに違いない。




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17.参道口からの眺めをイメ-ジする [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅲ.計画変更後(現存遺構)の区割りと配置

17.参道口からの眺めをイメ-ジする
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朱塗りの南大門へまっすぐ延びる道の先に堂々たる金堂の大屋根。右30度前方には天に伸びる七層のタワ-。左手には尼寺の甍が優美に連なる。それらの造形物が90度の広がりをもって、扇状に取り巻く緑の丘の麓に抱かれている。国分寺崖線という天然の好処を生かした造形美をイメ-ジした時、この広大な寺院の設計意図の全容が理解できる

技術と美の結晶
武蔵国分寺の広大すぎる寺院地、バラバラな中軸線、この配置がどのような作法によるものかが謎だった。金堂が全体の中央に居るからと言って、金堂を中心に全体を配置したと決めつけると謎は一向に解けない。

それを塔から見た方角の中で捉えなおすと、謎は一気に氷解する。まず湧水との位置関係から塔の場所が選ばれ、その塔を中心とした方位のうち、特に南北基軸、東西軸、冬至の日没・夏至の日没の方角を基準とし、そこに「東山道」と「崖地」と「湧水」と「浸水地帯」という地形的条件を加味すると、寺域の角の位置や辺の角度、主要建物の位置など、全ての位置関係に説明がつけられるのだ。

古代人が発明したこの緻密な作法は、極めて精度の高い測量技術がなければ成立しない。私たちはこれまで武蔵国分寺を、広いばかりで回廊もなく溝だらけ、中軸線もバラバラで場当たり的に造営された、所詮は辺境の寺と過小評価してはいなかっただろうか。

現在の東八道路の南に発見された「参道口」方面から崖線の連なりを眺めれば、その美しい広がりの前に過小評価はたちまち吹き飛ぶ。

府中の国府から北上した道が現在の農工大構内で北西に向かい、この参道口で分岐して僧寺南大門にまっすぐ続く。残念ながら、参道口からは建物にさえぎられて崖線を見渡すことはできないが、1200年前の参道の道筋からわずか数メートルしか離れていない現在の生活道路の道筋からは崖線の一部が見通せて、古代のダイナミックな景観をイメ-ジできる。また、南大門推定地南側の原っぱ(公有地)は参道の真上にあたり、この場に立って参道からの眺めを体感できる。



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16.僧寺金堂が、尼寺を含めた全体の中央に位置する [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅲ.計画変更後(現存遺構)の区割りと配置

16.僧寺金堂が、尼寺を含めた全体の中央に位置する
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僧寺金堂から北辺の溝までの距離 ≑ 僧寺金堂から南辺の溝までの距離
僧寺金堂から寺院地南東の角「C」までの距離 ≑ 僧寺金堂から尼寺伽藍地南西の角「M」までの距離

伽藍配置の特徴
①塔と「I」の真ん中を中軸線が通り、その結果、中門と塔の距離は200m以上開いた。中門と塔は東西軸上で横並びとなっている。中軸線の角度は東辺と平行、つまり古寺院区画に仮想される中枢部中軸線が西に平行移動されたものと思われる。

②僧坊を東西に配置。他国の国分寺では、僧坊を講堂の背後に置くケ-スが圧倒的に多いが、武蔵国分寺の場合、崖線の際から現在の元町通りまでは浸水の可能性があり中枢部をこれ以上、縦長に出来ない。この中に金堂、講堂、僧坊までも縦に並べれば建物間が近くなり、広大な伽藍地にはそぐわないため、僧坊を東西に置いたと思われる。

③浸水を避けられる元町通り以南、中門の場所までを中枢部域と定め、中門と金堂と講堂が等間隔となるように配置された。縦軸に僧坊を入れないため、建物間の距離がかなりゆったりとしている。

④金堂から北辺溝までの距離と南辺溝までの距離とがほぼ等しい。また、僧寺金堂から南東角「C」までの距離と尼寺伽藍地南西角「M」までの距離とがほぼ等しく、僧寺金堂が全体の中央に位置している。これは、僧寺中枢部中軸線が「I―塔」間の1/2地点に交差するよう配置されているため。(「I―塔」間の1/2の場所は、「I―C」間においては西からおよそ1/3にあたり、東山道の西に尼寺を置いた全体においては中央となる。)

⑤「大衆院」「政所院」が塔の北側に、「修理院」が寺院地南西の一角に、「薗院・花苑院」が塔の南側にあったと推定されている。(いずれも未調査)




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