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四小跡地の東山道武蔵路の特殊遺構について~小野本敦さんの報告から(2010年11月3日) [コラム]

今日(11/3)はいずみホールで行われた国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代-日本の古代道路とその保存・活用-」(国分寺市・国分寺市教育委員会主催)を聞いてきました。
講師の近江俊秀先生、佐藤信先生の講演も大変聞きごたえがありましたが、これについてのレポートはまたの機会に。
今日の基調報告を行った、ふるさと文化財課の小野本敦さんのお話の中に、四小跡地の東山道武蔵路関連遺構として表示されることになっている「特殊遺構」についての報告があり、大変興味深いものでした。

武蔵国分寺跡全体地図カラ-.JPG

東山道武蔵路(旧四小)特殊遺構.jpg

第三期の西側の溝に接するように表示されることになっている「特殊遺構」なるものが一体何なのか、前から気になっていましたが、墨書土器を二つ重ねて埋められたものが潰れた状態で、硬化面の上から出てきたのだそうです。
土器は平安時代のものだとのこと。

埋納状態推定図によると、「久」という文字を丸で囲んだ墨書が書かれた浅いお椀型の須恵器の上に、同じような形のもうひとつの須恵器が、伏せた状態で重ね合わせられています。(お椀の口と口を打ち合わせた状態)

特殊遺構図版.jpg

「丸に久」の墨書土器は、宮城県の多賀城跡山王遺跡から出ており、四小跡地から出たものも、これに非常によく似ているとのこと。
山王遺跡からは、人面土器や人形も大量に出ており、マツリに使われたものだそうです。これらの写真も紹介されました。

土器をふたつ重ねた形状については、宇治拾遺物語の巻十四の十に、「土器を二つうちあわせて黄色のこよりで十文字にからげて土に埋め、呪詛に使った」というくだりがあるそうです。
また、道路で行うマツリとして、道饗祭(みちあえのまつり)、四角祭(しかくさい)というものがあり、道饗祭(みちあえのまつり)とは、京城四隅の路上において、外から来る疫神が京内に入らないよう、道に迎えて饗応するマツリ、四角祭(しかくさい)とは、道饗祭から派生した祭祀で陰陽寮が行うものだそうです。

東山道遺構の道端からこのようなものが出てきたのは、非常に大きな発見だとのこと。
この「特殊遺構」について、今日、はじめて聞いたので、私も大変興味をひかれました。
多賀城といえば、東山道の北の果て、陸奥国府が置かれた場所ですよね。
「丸に久」の墨書土器は、これまで多賀城跡以外からは出ていないそうで、四小跡地の東山道武蔵路遺構から出た「丸に久」の墨書土器が、東山道の北の果ての陸奥から来たものだとすると、いったいなぜ、ここに運ばれてきたのか、陸奥の土器でなぜ祭祀をとりおこなったのか。
あるいは、「丸に久」の墨書土器は武蔵国で作られたもので、「丸に久」の文字に込められた意味合いにおいて、陸奥と武蔵に共通のものがあったと考えるべきなのか、謎は深まるばかりです。

さて、この講演会が終わった帰り道、一緒に受講した友人と30分ほどお茶をした後、スーパーで買い物をして、家に向かって東山道武蔵路の遺構道路を歩いていると、なんと、向こうから小野本さんが一人で歩いてきました。東山道の上で会うとは奇遇です。

基調報告が素晴らしかったこと、「特殊遺構」の土器のお話が大変面白かったなどと感想を申し上げたところ、非常にうれしそうな顔をなさり、丸に久と書かれた墨書土器などの写真を撮るために、自腹で多賀城跡山王遺跡まで行ったのだそうです。
「特殊遺構」については、「もっと面白い話があるので、ぜひ、お話したい」とのことでした。

家に帰ってからあらためて遺跡地図を眺めてみると、四小跡地の東山道遺構の場所は、七重の塔から見て、ちょうど戌亥(北西)の方角にあたっています。
この場所で平安時代、道饗祭(みちあえのまつり)や四角祭(しかくさい)みたいなマツリが行われていたらしいと思うと、本当にワクワクしてしまいます。
是非、詳しいお話を聞きたいものです。

旧四小跡地内の東山道武蔵路遺構の表示は、隣接する福祉施設事業者らのゴリ押しによって実施設計がくつがえされ、道路遺構を芝生(草地)にしてその周囲が舗装という、まさにあべこべの表示になってしまうことが決定されてしまいました。
参照:http://masugata.blog.so-net.ne.jp/2010-08-25-1

しかしこの場所は、単に古代道路があったというだけでなく、東山道武蔵路自体が武蔵国分寺寺域の「結界」としての意味をもち、その四隅のひとつとして祭祀の場であったかもしれないことがわかりました。
古代道路遺構の中でも特に重要な箇所として位置づけられるべき場所が保存され、国の史跡に指定されたことはまことに喜ばしいことですが、それならばなおのこと、適切な遺構表示がされるべきでした。

ふるさと文化財課としても、この表示は決して本意ではないでしょう。
整備完了後は、この歴史公園の現地解説など、多くの人に知ってもらうための”仕掛け”に力を入れて行くとのことです。

小野本さんら、若い研究者たちの熱意が、今、ひしひしと伝わってきます。



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武蔵国分寺はなぜここにあるのか~国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代」を受講して(2010年11月3日-2) [コラム]

文化の日、いずみホールで行われた国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代-日本の古代道路とその保存・活用-」(国分寺市・国分寺市教育委員会主催)の続きです。素晴らしい基調報告を行った、ふるさと文化財課の小野本敦さんのお話、四小跡地の東山道武蔵路関連遺構として表示されることになっている「特殊遺構」についての報告については、こちらにレポート:
http://musashi-kokubunji.blog.so-net.ne.jp/2010-11-04

小野本さんの報告に続いて、近江俊秀先生(文化庁記念物課文化財調査官)、佐藤信先生(東京大学大学院教授 古代史)の講演も大変聞きごたえがあり、面白かったです。いただいたレジュメも、貴重な資料が満載!

近江俊秀先生は、そのお名前から近江の方なのかと思ったら、宮城県のご出身だそうです。奈良県立橿原考古学研究所に長くいらして、奈良の研究者が皆、邪馬台国やら古墳やらの研究をしている中、近江先生はただ一人、ひたすら道(古代道路)の研究をなさってきたとのこと。奈良では道についての講演をしてもさっぱりウケないけれど、国分寺のいずみホールが満席ぎっしりなことをたいそうお喜びでした。
宮城出身の方が奈良でただ一人、道の研究を続けてこられたのは、中央と地方の関係、東国や東北など中央から見た辺境との関係に最大の関心がおありで、それを結ぶ道の研究をなさっているのかな、と思いました。

ご講話の内容は、古代官道はなぜ、まっすぐで広いのか、いつごろ、何の目的でこのようなものが作られ、どのような機能があったのか、というお話でした。
七道駅路の道路網は7世紀後半の天武天皇の発案により、律令制度の完成と中央集権の確立を目指し、中央と地方を結ぶ全国的な道路網として敷設されたもので、古代道路の総延長は6300キロメートルにもおよぶのだとか。これは、田中角栄の「日本列島改造論」の時代に建設された第一期高速道路網のうち、北海道を除く総延長6500キロメートルに匹敵するとのこと。

まっすぐで広い道の役割は、外国からの使者に対して立派な道路をみせつけることで国力を示すこと、都と地方を結び租税を最速最短で運ぶことなどの他、直線の道路に沿って農地を条理の区画で開墾することで生産性を高め、租税を確実に徴収する役割もあったとのこと。つまり、道路整備は農業基盤整備と一体であり、これはまさに、天武天皇の「日本列島改造計画」であった、というお話でした。

続いて佐藤信先生のご講和。テ-マは「東山道武蔵路と古代東国」。
倭の王権が東国(関東)に勢力をのばす過程において東海道や東山道が形成され、東国は倭王権の軍事的基盤であった。772年に武蔵国は東山道から東海道に所属がえになったけれど、それ以前も以後も、武蔵国はもともと東山道と東海道を結ぶ橋渡しの場所であった。東国は倭王権の軍事的基盤であったことによって過重な負担から関東が疲弊し、そのことが原因となって関東に武士集団がおこった、など。

武蔵国の国府が、東山道の本道に近くて強大な勢力を誇っていた北武蔵ではなく、本道から遠く離れた南武蔵に置かれたのは不思議なことですが、北武蔵と南武蔵の勢力争いとして起こった「武蔵国造の反乱」において、大王の力を得た南武蔵が勝利したことで南武蔵に屯倉(大王直轄領)が置かれ、そのことが国府誘致につながったというお話も大変興味深いものでした。

南武蔵に国府が置かれなければ、「武蔵国」の国分寺は別の場所に建立されることになったはずです。
武蔵国分寺はなぜここにあるのか、というテーマを考える上でも、大きなヒントをいただいた講座でした。
「武蔵国造の反乱」において南武蔵が勝利しなければ、南武蔵の郡衙につながる道はあったとしても、官道としての東山道武蔵路が敷設される理由がなかった、ということが言えるのかもしれません。

東山道武蔵路という官道が、北武蔵と南武蔵の間のすさまじい誘致合戦、あるいは戦闘の末にようやく引っ張ってきた道だとすれば、天皇のお膝元たる南武蔵の権威の象徴である「武蔵国分寺」は、広くまっすぐで天皇の居る都へと続く東山道武蔵路沿いの、必ずや道路に接した場所に建てられなければならなかったのではないでしょうか。

741年の国分寺建立の詔を受けて、最初に塔を中心とした寺院地が区画されたとする「古寺院地区画溝」は、東山道武蔵路からなんと150mから200mも離れています。東山道に接する区画溝は後年になって掘られたものだとするのが定説になっていますが、そうなると、武蔵国分寺の当初寺院地区画を東山道から離した理由がわからない。

それよりも、武蔵国分寺の区画設計は、はじめから寺院地の北西と南西の角が東山道に接するように計画され、「古寺院地区画溝」は、僧寺と尼寺をわける溝と考えたほうが合理的なのではないか、と思うのです。
つまり、当初は東山道の東側に接するように、七重の塔と僧寺と尼寺がすべてセットで計画されていた。それがなんらかの理由で(おそらくは、尼寺が固有の湧水と薬草等を栽培する広い敷地を必要としたという理由などで)尼寺を東山道の西側に遷し、東山道の東側には僧寺と修理院(僧寺・尼寺共通の鍛冶工房)を併設するよう設計変更が行われたのではないか、と筆者は考えています。

東山道武蔵路を南武蔵まで引っ張ってくるまでの経緯を考えると、南武蔵の権威の象徴である「国分寺」を東山道から切り離して設計するはずがない。はじめから東山道に接する場所に設計されていなければならなかったはずです。
ましてや、四小跡地の東山道遺構から、疫神を退散させる祭祀の痕跡らしきものが出てきたとなれば、道は「通路」であるだけでなく、聖域と外界を隔てる「結界」として機能していたことが伺えます。
こうした祭祀が平安時代になってにわかに始まったと考えるよりは、武蔵国分寺ははじめから、結界としての東山道武蔵路に寺院地の角を置くように設計され、後の設計変更においてもその設計原理が踏襲されたと考えるべきではないでしょうか。
こう考えるひとつの傍証として、尼寺の寺院地は、東山道武蔵路には一箇所も接していないのです。

武蔵国分寺跡全体地図カラ-.JPG



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噴煙を上げる富士の背後に日が沈む(日が昇る)光景(2010.11.22) [コラム]

目のまわるような忙しさで、しばらく更新が止まってしまいました。

さて、富士山が国の史跡に指定されることになりました。
文化審議会が11月19日、文部科学相に答申をしたとのニュース。日本の古代から近代に至る山岳信仰のあり方を考える上で重要として、8合目以上の山頂部と社寺などを指定するのだそうです。

武蔵国分寺の七重の塔と僧寺寺院地区画溝の南西の角を結ぶ線を延長すると富士山頂に到達し、その方角は冬至の日没の方角とピッタリ一致します。
奈良時代に国分寺建立の詔を受けて武蔵国分寺の伽藍配置が設計された当初から、富士山頂と冬至の日没の方角が強く意識されていたのは間違いないだろうと考えています。

しかし、武蔵国分寺から見えていた当時の富士山の姿は、現在のような穏やかで秀麗な姿ばかりではなかったようです。
奈良時代から平安時代の終わり頃まで、富士山はさかんに噴火を繰り返し、絶えず噴煙を上げていたのだとか。
富士山の噴火が正式な記録文書に残された最初は781年、奈良時代の終わりごろですが、それ以前、万葉集にも富士山の噴火をうかがわせる歌があるそうで、奈良時代の始めごろにも噴火をしたようです。
武蔵国分寺の設計・建設が行われていたころにも、富士山は噴煙を上げていたか、あるいは噴煙はおさまっていたとしても、噴火の記憶が新しい、そんな時代だったようです。

12月22日の冬至の日、太陽は富士山頂の真下に向かって、富士山の左の肩口から沈みます。
富士山頂に沈むのは12月の頭と1月の中ごろ。
運がよければダイヤモンド富士が見られますが、今年はどうでしょう。

今年の1月14日には、七重の塔跡から、富士山頂に沈む夕日の撮影に成功しました。
http://musashi-kokubunji.blog.so-net.ne.jp/2010-10-21-2

12月の頭まで、あと10日ほど。
武蔵国分寺の全盛期、冬至前後の太陽が噴煙を上げる富士山の真裏に沈んで行く光景を、人々はどんな思いで眺めていたのでしょう。
今年は、私もそんな光景を想像しながら、冬至の日没を眺めてみようと思いますが、当時の人々の富士山への信仰は、現在の穏やかな富士山への畏敬とは違う、もっと深い畏れだっただろうことは想像に難くありません。

武蔵国分寺と富士山頂を結ぶラインをさらに西へ延ばしていくと、伊勢の二見ヶ浦に到達します。
二見ヶ浦からも富士山は見えるそうで、夏至の頃、夫婦岩の間に小さく見える富士山の真裏から、大きな大きな朝日が、富士山をすっぽり覆うように昇ってきます。
そんな瞬間をとらえた現地のポスターを写真に撮ったものを拝見したことがあり、目が釘付けになりました。

真っ赤な朝日の真ん中に、奈良・平安時代の噴煙を上げる富士山が見えたら・・・。
人々が抱くのは、畏敬というよりむしろ畏怖の念ではないでしょうか。
それは、富士山そのものに対する畏怖であるばかりでなく、そうした光景が見える伊勢二見ケ浦という土地そのものが信仰の場となっていったのだと思います。

このたび、国の史跡指定の答申がなされた場所は、富士山の八合目以上の山頂部と社寺だということですが、富士山は、富士山そのものだけでなく、それを眺める場所が信仰の場所となってきたということを、あらためて考えさせられました。


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新燃岳(しんもえだけ)噴火の霧島と武蔵国分寺(2011.2.1) [コラム]

しばらく更新が止まっておりました。歴史ルポ「塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る」の連載も止まったままになっております。

きょうのレポートは、霧島連山と武蔵国分寺の不思議な位置関係について。

宮崎、鹿児島県境の霧島連山・新燃岳(しんもえだけ)の噴火活動が活発化し、火口内の溶岩ドームが崩壊して火砕流が起きる恐れが高まったとして、立ち入り禁止区域が宮崎県側で火口に最も近い高原町(たかはるちょう)に避難勧告が出たとのこと。
火口内の溶岩ドームが直径約500メートルに膨張、中心部の高さが約100メートルに達し、火口縁と同程度になっているのが確認されたそうです。

高原町(たかはるちょう)では、空振のドンドンドンという音や地鳴りがひっきりなしに続き、火山灰が降っているとのこと。私も阪神淡路大震災直後、地の底から鳴り響く地鳴りを経験しているので、どんなに怖いかよくわかります。
農作物も火山灰をかぶり、畜産農家は牛を置いて避難できないと、家に残っている方もいらっしゃるそうです。一部、牛の避難も始まっているように聞きますが、一刻も早く、人間と家畜の避難が完了し、避難生活ではあっても、安全に寝て食べて健康が保てる環境が確保されるよう、祈るような気持ちです。
噴火災害は終焉がいつになるかが見えない災害です。自治体だけでなく、国の支援が不可欠です。

さて、霧島連山といえば、一番南の高千穂峰は、いわゆる天孫降臨の地とされる霊峰。天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫の迩迩芸命(ニニギノミコト)が降臨に際して、山頂に逆さに突きたてたという鉾「天の逆鉾(あまのさかほこ)」を、幕末の坂本龍馬が引き抜いたというエピソードが、昨年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で話題になりました。

霧島は、ここ武蔵からは遥かに遠い地ですが、不思議なご縁があります。
天平時代の寺院・武蔵国分寺の七重の塔と、僧寺寺院地区画の南西の角を結ぶラインは、冬至の日没の方角とピッタリ一致しますが、そのラインを西へずっと伸ばして行くと、富士山頂を通り、伊勢神宮を通過し、高千穂峰・霧島神宮付近に到達するのです。
ニニギが降り立ったという高千穂峰、天照大神がまつられている伊勢神宮、そして富士山頂は冬至の日没(=夏至の日の出)ラインで結ばれ、その東の延長線上に武蔵国の国分寺がある、というわけ。
天孫族の東征の物語と奇妙に一致しているのが興味深いです。

天孫降臨があったとされる霧島の地から見ると、伊勢は日出国(ひいずるくに)。伊勢から見ると、まさに富士山・武蔵国などの東国が日出国(ひいずるくに)なのです。

より大きな地図で 冬至・夏至方位線ネットワ-ク を表示

同じ「太陽の道」上の武蔵国分寺から、霧島の地へ、心からお見舞い申し上げます。

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