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15.計画変更が行われた(現存の遺構の位置へ) [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅲ.計画変更後(現存遺構)の区割りと配置

15.計画変更が行われた(現存の遺構の位置へ)
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最終的に僧寺中枢部は東山道寄りに建設され、東山道の西側に尼寺が建設された。これにともない、古寺院区画溝「A-D」は埋め戻された。黄色い線が現存遺構における主要施設の中軸線。

ここまでのまとめ
①塔は3つの湧水を背後に背負う場所に建てられ、中央の湧水と塔を結ぶ東偏1度線の左右30度の角度に両側の湧水が取り込まれている。

②僧寺寺院地の南西と北西の角は、塔から見た日没の範囲(冬至~夏至)を示す。同時に、塔の位置によって寺院地の南北の距離が決定されている。

③現存の遺構の僧寺中枢部中軸線は「寺院地北西の角」と「塔」を結ぶ線のちょうど真ん中を通過している。また、僧寺中門は「塔-湧水基軸」に対して直角の「東西軸」上に置かれており、中門と塔は東西横並びの関係になっている。

④現存の僧寺中枢部中軸線の少し西側に、一旦掘られて埋め戻された区画溝跡「A-D」が発掘調査で確認されている。これは武蔵国分寺の草創期、現存の僧寺伽藍地区画よりも古い時期に区画された溝と考えられている。

⑤「古寺院地区画」に「原型」(塔-湧水基軸に対して左右均等で湧水後背地の崖上を含む)があったと仮定し、「原型」を左に傾斜させて遷したものが「古寺院地区画」との仮説が成り立つ。

⑥「古寺院地区画」を左に傾斜させたのは、中枢部を塔の西側に置き、かつ、中枢部中軸線を崖線にまっすぐ入角させるために軸を西偏させる必然性があったから、との仮説が成り立つ。

⑦最終的には僧寺中枢部を東山道寄りに造営するよう計画変更が行われ、それにともない「A-Dの溝」のみが埋め戻され、北辺、東辺、南辺の区画溝はそのまま計画変更後の区画に使われた。


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16.僧寺金堂が、尼寺を含めた全体の中央に位置する [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅲ.計画変更後(現存遺構)の区割りと配置

16.僧寺金堂が、尼寺を含めた全体の中央に位置する
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僧寺金堂から北辺の溝までの距離 ≑ 僧寺金堂から南辺の溝までの距離
僧寺金堂から寺院地南東の角「C」までの距離 ≑ 僧寺金堂から尼寺伽藍地南西の角「M」までの距離

伽藍配置の特徴
①塔と「I」の真ん中を中軸線が通り、その結果、中門と塔の距離は200m以上開いた。中門と塔は東西軸上で横並びとなっている。中軸線の角度は東辺と平行、つまり古寺院区画に仮想される中枢部中軸線が西に平行移動されたものと思われる。

②僧坊を東西に配置。他国の国分寺では、僧坊を講堂の背後に置くケ-スが圧倒的に多いが、武蔵国分寺の場合、崖線の際から現在の元町通りまでは浸水の可能性があり中枢部をこれ以上、縦長に出来ない。この中に金堂、講堂、僧坊までも縦に並べれば建物間が近くなり、広大な伽藍地にはそぐわないため、僧坊を東西に置いたと思われる。

③浸水を避けられる元町通り以南、中門の場所までを中枢部域と定め、中門と金堂と講堂が等間隔となるように配置された。縦軸に僧坊を入れないため、建物間の距離がかなりゆったりとしている。

④金堂から北辺溝までの距離と南辺溝までの距離とがほぼ等しい。また、僧寺金堂から南東角「C」までの距離と尼寺伽藍地南西角「M」までの距離とがほぼ等しく、僧寺金堂が全体の中央に位置している。これは、僧寺中枢部中軸線が「I―塔」間の1/2地点に交差するよう配置されているため。(「I―塔」間の1/2の場所は、「I―C」間においては西からおよそ1/3にあたり、東山道の西に尼寺を置いた全体においては中央となる。)

⑤「大衆院」「政所院」が塔の北側に、「修理院」が寺院地南西の一角に、「薗院・花苑院」が塔の南側にあったと推定されている。(いずれも未調査)




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17.参道口からの眺めをイメ-ジする [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅲ.計画変更後(現存遺構)の区割りと配置

17.参道口からの眺めをイメ-ジする
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朱塗りの南大門へまっすぐ延びる道の先に堂々たる金堂の大屋根。右30度前方には天に伸びる七層のタワ-。左手には尼寺の甍が優美に連なる。それらの造形物が90度の広がりをもって、扇状に取り巻く緑の丘の麓に抱かれている。国分寺崖線という天然の好処を生かした造形美をイメ-ジした時、この広大な寺院の設計意図の全容が理解できる

技術と美の結晶
武蔵国分寺の広大すぎる寺院地、バラバラな中軸線、この配置がどのような作法によるものかが謎だった。金堂が全体の中央に居るからと言って、金堂を中心に全体を配置したと決めつけると謎は一向に解けない。

それを塔から見た方角の中で捉えなおすと、謎は一気に氷解する。まず湧水との位置関係から塔の場所が選ばれ、その塔を中心とした方位のうち、特に南北基軸、東西軸、冬至の日没・夏至の日没の方角を基準とし、そこに「東山道」と「崖地」と「湧水」と「浸水地帯」という地形的条件を加味すると、寺域の角の位置や辺の角度、主要建物の位置など、全ての位置関係に説明がつけられるのだ。

古代人が発明したこの緻密な作法は、極めて精度の高い測量技術がなければ成立しない。私たちはこれまで武蔵国分寺を、広いばかりで回廊もなく溝だらけ、中軸線もバラバラで場当たり的に造営された、所詮は辺境の寺と過小評価してはいなかっただろうか。

現在の東八道路の南に発見された「参道口」方面から崖線の連なりを眺めれば、その美しい広がりの前に過小評価はたちまち吹き飛ぶ。

府中の国府から北上した道が現在の農工大構内で北西に向かい、この参道口で分岐して僧寺南大門にまっすぐ続く。残念ながら、参道口からは建物にさえぎられて崖線を見渡すことはできないが、1200年前の参道の道筋からわずか数メートルしか離れていない現在の生活道路の道筋からは崖線の一部が見通せて、古代のダイナミックな景観をイメ-ジできる。また、南大門推定地南側の原っぱ(公有地)は参道の真上にあたり、この場に立って参道からの眺めを体感できる。



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18.尼寺の場所は浸水危険地帯では? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって

18.尼寺の場所は浸水危険地帯では?
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かねがね不思議に思っていたことがある。尼寺の北側と北西側は土地が低く湧水に覆われた沼地のような場所だったはずだ。北西の湧水群が大出水した際、尼寺伽藍地の一部(特に尼坊の場所)は、浸水を免れられない場所に当たっていたのではないだろうか。この場所に何故、あえて寺院を作ったのだろうか。

黒鐘の崖は典型的な大湧水地の地形
尼寺の北西側、現在の黒鐘公園を北から西にとりまく崖線は北西側に深くえぐれており、こうした谷戸は豊富な湧水によって浸食された典型的な地形だ。その黒鐘の谷戸からは、近年まで2つの湧水が湧いており、その一つは今でも多雨季になるとわずかに湧出し、かつて沼地だった名残のような浅い池に流入している。おそらく古代は、北西に切り込んだ崖の裾野にたくさんの湧出口があり、現在の黒鐘公園一帯は沼地のようなところだったと思われる。

大量湧出した時、尼寺はその流れを避けきれたのだろうか。黒鐘公園の奥まった場所から開口部側を見渡すと、地面は緩やかながらも南東側が低くなっている。尼坊伽藍地北側の草原には西から東にむかって、河床のような窪地の地形が残っている。ここは今でも水が溜まりやすく、排水用のマンホ-ルが設置されている。この窪地は東への流れの名残だろう。また、現在の地形図の等高線を見ると、湧水の流れは尼寺伽藍地内の西側を通って南へも流れていたのではないかと思われる地形だ。高い基壇を持つ金堂はともかくとして、流れに近い尼坊あたりは浸水したのではないだろうか。

尼寺の周囲には、溝が並んで3本切られている。2本は塀の外、1本は塀の内側という三段構えだ。出水対策のためだろうか。研究者たちはこの溝を、寺院中枢部の基礎を作るための土を掘った跡だと考えられているらしい。しかし、中枢部の基礎を作る土を確保するために、寺院の塀の内側まで掘るものだろうか。

いずれにしても敢えてこの場所に寺院を作るには、余程深いわけがあったに違いない。




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19.尼寺伽藍地の不思議なかたち [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって

19.尼寺伽藍地の不思議なかたち
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200m四方ほどの尼寺伽藍地は、辺と中軸線の方向がことごとくチグハグしている。創建時は基壇を持たない仮設的な金堂が建てられ、後年、金堂と中門のみ立派なものに建て替えられた際、中軸線の不整合が生じたものと考えられている。また、伽藍地の不思議な形は、東山道の反対側の角の形と奇妙に一致している。

奇妙な一致
尼寺伽藍地のかたちは何とも奇妙だ。

①尼寺伽藍地は歪な四角形をしており、東辺が東山道に沿わずに、北へ上がるほど道と離れて行く。
②伽藍地南辺の溝は、西へ行くほど中枢部区画溝の南辺に近づいている。

また、中枢部の中軸線の向きもチグハグしている。
①復元表示されている中門跡と金堂跡の中軸線は西偏2度30分だそうだが、尼坊の向きや中枢部東辺・西辺の向きと一致していない。
②その中門は建て替えられたもので、古い中門が現存遺構より少し西寄りに建てられていたと考えると、尼坊の向きや中枢部東辺・西辺の向きと合致しそうだ。古い中軸線は西偏1度前後か。中門とともに金堂も建て替えられたと考えられる。

左の地図のピンク色の伽藍地が現存の遺構だが、この形、鏡で写すようにして左右を反転させると、僧寺寺院地南西の角にピッタリはまってしまいそうだ。すると尼寺は当初、僧寺寺院地南西の角に「水色の枠」の形で計画されていたものを鏡に写すように左右反転させて東山道西側に遷したのではないだろうか。

尼寺用地は治水上、決して安全が保障される場所ではない。「仏の加護が必ず働く」というよほどの確信でもない限り、こんな場所に寺院は建てられないはずだ。
現存する遺構の尼寺は、鏡の中に像を結ぶ「写し」として、この場に遷されたのではないだろうか。伽藍地の辺の方向と中軸線の方向がチグハグしているのは、鏡のように反転させて遷したことによって生じたと考えられないだろうか。

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20.「古寺院区画」の尼寺はどこに計画されていたのか? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって

20.「古寺院区画」の尼寺はどこに計画されていたのか?
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「古寺院地区画」が天平13年(741年)2月の国分寺建立の詔を受けて、尼寺とセットでの計画を前提としたものだと考えると、その時点で尼寺は東山道の東に計画されていてもおかしくない。(※聖武天皇による勅命の変遷は07項を参照

尼寺と僧寺中枢部の位置関係
現存遺構の尼寺が造営される以前に、東山道の反対側に計画された時期があるのではないかと考える理由として、18~19項で2つの理由を挙げた。

①立地が浸水危険地帯であり、余程深い事情と担保がない限り選地されない場所であろう。
②辺と中軸線の方向がことごとくチグハグしている尼寺伽藍地の不思議な形は、東山道の反対側の角の形と一致しており、鏡で写したような関係。

理由はこれ以外にもある。古寺院地区画溝「A-D」はいつ掘られたものかということを考えると、「740年6月七重塔建立の勅命」から「741年2月国分寺建立の詔」までのわずか8ヶ月の間に選地・測量・計画決定・着手にまで至ったとは思えない。すると「A-D」の掘削は741年2月以降のはずで、それなら必ず「尼寺とセットでの計画」を前提とした溝であるはずだ。

ならばその時、尼寺はどこに計画されていたのか?

仮にその場所が東山道の東側(水色の枠の場所)だったと仮定してみよう。すると、「古寺院地区画」の中枢部中軸線と仮想した線(水色線)から「C」までの距離と「J」までの距離はほぼ等しくなる。これは現存遺構の僧寺金堂から「C」までの距離と「M=尼寺南西角」までの距離が等しいのと同じ関係だ。「水色線上の僧寺金堂」と「水色枠の尼寺金堂」は400m以上離れており、現存遺構における金堂同士の距離と大差ない。現存遺構は「道路」を挟んで僧寺と尼寺を隣接させ、「古寺院地区画」においては「溝」を挟んで隣接させる計画だった、との推理が成り立つ。「A-Dの溝」はそのために掘られた溝ではなかったか。



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21.計画変更に関する国分寺市教委の解釈 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって

21.計画変更に関する国分寺市教委の解釈
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「草創期において、まず塔中心の区割り(古寺院区画)が計画され早くから着手されたが、その後、金堂中心の考え方に変わり計画変更。変更後、まず金堂の位置が決定され、金堂を中心に全体の区割りが決定されたが、塔の位置はかわらなかったため塔が遠くに取り残された。」市教委はこう説明してきたのだが・・。

「現存遺構」は「原計画」の踏襲では?
筆者は13項で「古寺院地区画」内に中枢部中軸線を想定してみたが、これを東山道まで拡大した寺院地の中で捉え直してみると、中枢部中軸線はなんと、そのど真ん中だ。そして金堂は「IBCJ」の対角線の交点付近にある。するとこの中軸線は、はじめから「IBCJ」の中心として設定されたのではないだろうか。

現存の遺構では、僧寺中枢部中軸線が「尼寺南西角」と「C」の真ん中を通っている。そうなると、「A-Dの溝」が掘られた時点においても、僧寺中枢部中軸線を挟んで「C」の反対側に尼寺を作る計画がたてられ、計画変更後の計画においても、僧寺中枢部中軸線を中心とする基本的位置関係が踏襲された、と考えるべきではないか。741年の国分寺建立の詔以降、このような「原計画」が存在していたのではないだろうか。

その後間もなく何らかの理由で尼寺が東山道の西側に遷されることになり、それに伴って僧寺中枢部も西へ平行移動することになった。変更後の計画において、隣接する尼寺と僧寺を隔てていたものは東山道だ。とすれば、「A-Dの溝」は、「隣接する尼寺と僧寺を隔てる溝」として掘られ、計画変更にともなって埋められた、と考えるのが最も自然ではないだろうか。

すると、741年の国分寺建立の詔を受けて、①「A-Dの溝」を隔てて僧寺と尼寺を隣接させようとしたのが原計画、②東山道を隔てて隣接させたのが変更後計画、という分け方が成り立つ。むろんどちらも塔の位置を基準点として、金堂が中央に位置するように区割りと配置が割り出されたもので、基本的な設計思想になんら変更はなかった、と筆者は考えている。

<参考資料>武蔵国分寺跡資料館解説シ-トNo.4「武蔵国分寺の建立」


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22.尼寺はなぜ浸水危険地帯に造営されたのか? [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅳ.尼寺の位置をめぐって

22.尼寺はなぜ浸水危険地帯に造営されたのか?
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武蔵国分尼寺が医療・福祉施設の機能を担って、悲田処や施薬処などの付属施設を併設していたとすれば、その用地はおそらく黒鐘の森の中だろう。あるいは東山道武蔵路沿いに、旅の途中に病や怪我で倒れた人のための救護所などがあったかもしれない。当然、洗浄のために大量の水や湯が必要だったろう。

滅罪の寺は医療・福祉の最前線?
741年の国分寺建立の詔は、「僧寺と尼寺を対にした造塔の寺を造営せよ」という勅命だった。それを受けて、東山道の東側に「崖」と「湧水」と「崖下の平地」を取り込む寺院地が区画され、浸水の心配のない場所を選んで七重の塔と僧寺と尼寺を建設する原計画が立てられた。僧寺と尼寺の間には仕切り線としての溝が掘られた。しかし間もなく計画が変更となり、尼寺が東山道の西側に鏡で写したように左右を反転させた形で遷された。それにともない僧寺も西へ移動させることになり、塔と北西の角「I」の真ん中に中軸線が交差するように移動させた。以上が筆者の仮説だ。

しかしこのような原計画の有無にかかわらず、尼寺は一体なぜ浸水危険地帯に造営されたのだろうか。

筆者はしばしば黒鐘の谷戸の鬱蒼とした森から尼寺を見渡してみる。明るく開けた伽藍地と、日の当たらない黒鐘の森の重い湿り気はあまりにも対照的だ。

尼僧たちは仏に仕える僧侶だっただけでなく、常に本物の死と向き合い、身を捧げて祈り働く前線のナイチンゲールだったのではないだろうか。武蔵国分尼寺が医療・福祉施設の機能を担って、悲田処や施薬処などの付属施設を併設していたとすれば、その用地はおそらく黒鐘の森の中だろう。同時に森と湿地は食用・薬用植物の採取・栽培地だったかもしれない。

医療のために中枢部を森と湧水に近づけたのだとすると、尼寺は予想以上に大きな広がりを持っているのかもしれない。21世紀の今も黒鐘の森は都立府中病院をはじめとする医療のメッカだ。谷戸の奥には看護学校寮もある。ここは今でも献身の魂が生きる森なのだ。

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23.もうひとつの七重の塔が出てきた! [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅴ.もうひとつの七重の塔

23.もうひとつの七重の塔が出てきた!
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七重の塔は国分寺建立の詔(741年)から20年ほどで完成、835年、神火(落雷)により焼失、その10年後(845年)に同じ場所に再建され、1333年に武蔵国分寺炎上とともに焼失」というのが定説とされていたが、2003年度からの国分寺市の調査で、現存遺構の約55m西の地点から「もうひとつの塔跡」が発見された。

作りかけのまま断念された塔?
「もうひとつの塔跡」(塔跡2)が発見されたことで国分寺市は「すわ、創建塔か」と色めき立った。

従来からの塔(塔跡1)と金堂が200m以上も異様に離れているため、創建塔はもっと西寄りにあるのではないかと古くから言われていた。塔跡の西の墓地に5個の礎石が固め置かれていることが古くから知られており、そこが創建塔跡ではないかと言う説もあったが、昭和39年の塔跡発掘調査の際、基壇外周に焼けた瓦の混じった粘土で固めた補修痕や、心礎以外の礎石の据え替えの痕跡がみつかったため、落雷で焼けた創建塔の場所に再建されたとの見方が定説となっていた。

今回、もうひとつの塔跡が発見されたのは、礎石が固め置かれている墓地のすぐ南側だった。「もし創建段階の塔なら、中枢部との距離は相応」との見解も出されたが、塔跡1より55m西寄りとはいえ、金堂と塔跡2の距離は150m以上だ。遠いことかわりはない。

塔跡2からは立派な版築が出てきたものの出土品が極めて少なく、心礎の抜取り穴は見つかったものの石はなく、礎石も根石も礎石の抜取り穴も基壇の上には残っていなかった。基礎工事が行われたものの上物がのせられることなく断念されたもののようだ。その上、数少ない出土品においても、版築土中から瓦が出てきたり、再建期の土器が出てきたりで、草創期の遺構である可能性は低い、というのが現在の市教委の見解だ。

だが、時期はいつであれ、金堂よりに作りかけたものが断念されたことの意味は重い。七重の塔の場所は、どうしても塔跡1の場所でなければならなかった。それがはっきりしたのではないだろうか。

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24.作りかけのまま断念された時期と理由を考える [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅴ.もうひとつの七重の塔

24.作りかけのまま断念された時期と理由を考える
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版築土中から瓦が出てきたり、再建期の土器が出てきたり、数少ない出土品は、草創期の遺構である可能性を低めるものばかりだそうだが、時代を特定する遺物があまりにも少なすぎて断定には至らない。この塔跡が作りかけのまま断念された時期と理由を、①草創期と仮定した場合と②再建期と仮定した場合について考えてみた。

時期と理由① 草創期と仮定した場合
塔跡1の50mほど西側に、崖線の連なりが最も美しく見えるポイントがあり、塔跡2がまさにその場所だ。尼寺と一体的な計画を前提としない段階であれば、塔が塔跡1以外の場所に計画されていてもおかしくはない。尼寺を含まない740年勅令から翌741年の尼寺併設令までの間に基礎工事がここまで進んだということはありえないが、741年の尼寺併設令が出た際「尼寺は別途しかるべき場所に作ればよい」として、塔跡2での工事が相当に長らく続行されていたと考えれば、この場所に塔跡があってもおかしくはない。

しかし、国分寺建立の詔の趣旨は二寺一体計画だ。諸国国分寺の多くにおいて、二寺は一体的計画とはならなかったようだが、武蔵国分寺においては、勅令の趣旨を遵守すべきとする意見が優勢となり、ほぼ完成した基壇に上物を建築することをついに断念。塔を東に新しく作り直すことで、七重の塔・僧寺・尼寺一体的な計画を作成しなおした、ということは考えられる。

何故、塔を東に移動させる必要があるかというと、尼寺を含めた一体的な計画とするためには、当然、寺院地を東山道まで拡大する必要があり、その方法は、塔から見た夏至の日没・冬至の日没の方角が東山道と交わるところを寺院地の北西角・南西角とする方法だ。ところが塔跡2の場所からこの方向決めを行うと、夏至の日没の方位線が崖の中腹で東山道と交わってしまい、東山道寄りの崖線を崖上まで取り込めなくなってしまう。そこで計画を根本的に練り直し、塔を新しく作り直した。以上のように考えれば、「創建塔を中途で断念し作り直した」という仮説に一応の説明はつく。

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25.七重の塔を再建した壬生吉士福正(みぶのきしふくしょう)という人物 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅴ.もうひとつの七重の塔

25.七重の塔を再建した壬生吉士福正(みぶのきしふくしょう)という人物
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作りかけた塔が断念された時期として、より有力なのが再建期だ。続日本後紀(しょくにほんこうき)の記録によれば、835年、塔は神火(落雷)で焼失し、10年後の845年(国分寺建立の詔からおよそ100年後)、男衾郡(おぶすまぐん)の前大領(さきのだいりょう)壬生吉士福正が再建を願い出て許された、とある。

時期と理由② 再建期と仮定した場合
私費で塔を再建したいと申し出た壬生吉士福正は男衾郡の元郡司、余程の財力と統率力を併せ持ち、信仰にあつく天皇への忠誠心の強い人物だったに違いない。二人の息子の一生分の税を一括して払いたいと申し出て認められたというエピソ-ドの持ち主だが、あまり才には恵まれなかったらしい息子たちの行く末が余程心配だったのか、しかし、ケタ違いの発想と次の100年を見通す眼を持つ人物ではあったろう。

塔跡2で検出された版築は専門家が見ても傑出した出来栄えだそうで、筆者も美しい縞模様に目を見張った。これを作った人物は、焼け落ちた塔の隣に元の塔とそっくりな新品の塔を立派に作ることが道にかなうと信じ、大変な意気込みで取り組んだのかもしれない。

しかし塔の場所は、元の場所にこそ造塔の意味がある。隣に建てたのでは寺院地全体の配置と整合しない。村山光一先生のお説によれば「元の塔が焼失してから10年の間に、在任中の国司のもとで塔再建の基礎工事だけは行われたが、国司は2~3年の任期で帰京、再建計画は頓挫したままになっていたところに壬生吉士福正が願い出て、正しい場所に再建したのではないか。」ということだ。壬生吉士一族は100年前の武蔵国分寺の創建にもかかわりを持っていたのかもしれない。

それにしても一豪族が私費で再建に踏み切るのは余程のことだ。夢のお告げでもあったのだろうか。100年前の武蔵国分寺造営の最高責任者は、国司・多治比真人広足。広足が福正の夢枕に立ったかどうかは知らないが、100年の時を越えた継承のドラマ、私に才さえあれば伝奇小説のひとつも書けそうな題材だ。

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26.「もうひとつの七重の塔跡」の存在から見えてきたこと [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅴ.もうひとつの七重の塔

26.「もうひとつの七重の塔跡」の存在から見えてきたこと
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礎石が固め置かれたそばに土地の高まりが見え、古くから「何かある」と言われてきた場所に、21世紀の初頭、レーザー探査をかけたところ塔の基壇が発見された。掘ってみると傑出した出来ばえの版築が出現。しかし、基壇の上に塔が建てられた痕跡がみつからない。精魂を傾けられながら放棄された「もうひとつの塔跡」の存在は、塔が本来あるべき場所を物語る。これこそ長年の謎を解く大発見だ。

福正の仕事について考える
24項と25項で、もうひとつの塔跡が作りかけのまま断念された時期と理由を、①草創期と仮定した場合と②再建期と仮定した場合について考えてみた。

草創期と仮定するためには、尼寺併設令が出た後も一体的計画が打ち出されないまま、相当長らく建設が続いていたことが前提となり、また、発掘調査の結果、数少ない出土品は創建時の仕事でないことを示すものばかりだったことから、可能性は極めて低い。

そうなると「元の塔の焼失後、在任中の国司のもとで焼失塔の隣りに基礎工事が行われたが、国司が任期満了で帰京するとともに再建計画は頓挫、そこに壬生吉士福正が願い出て正しい場所に再建した。」という村山光一先生の再建時説が断然有力だ。もっとも、焼失塔の隣りに再建を試みたのは福正自身、作り直したのも福正自身である可能性はあるかもしれない。

なお国分寺市教委は、東大寺のようなツインタワーであった可能性をまだ捨ててはいない。なるほど、福正の財力と発想をもってすればあり得なくはない。しかし、塔の中心と中心がたった55mしか離れていない2基の塔が並び立つ景色はどう考えても美しくない。願わくば福正さん、これだけは勘弁してねと言いたい。

ところで塔跡2には今日まで土壇の高まりが残っていたらしいが、福正が隣りの立派な土壇を利用しなかったはずはない。基壇は化粧直しされて舞楽を奉奏する土(石)舞台として活用されたのではないだろうか。基壇西側から憧竿(どうかん)の穴が見つかっている。東側の調査はこれからだが、左右対象な場所から憧竿跡が見つかるのではないかと期待している。


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27.塔の位置取りから、全体のコンセプトが見えてきた [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅵ.今も生きている都市計画

27.塔の位置取りから、全体のコンセプトが見えてきた
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これまで見てきたことから、武蔵国分寺の七重の塔は、それが建てられた場所に意味があるということがわかった。まず周囲の地形的条件から塔の場所が選定され、その塔の場所を基準点として塔からの方位線上に寺院の区割りと配置が決定されている。塔の位置取りにどのような要件が備えられているかを見ることで、全体のコンセプトが浮かび上がってくる。

「好処」が全て取り込まれている
塔の位置取りに備わっている要件で最も中核的なものは以下の3つに絞れるだろう。
①3湧水を均等に背負える場所に塔が建っている。
②塔から見た冬至の日没の方位線・夏至の日没の方位線が東山道と交わるところを寺院地の北西角・南西角とし、北西角が崖線の崖上まで取り込めるように塔が配置されている。
③崖下の湿地帯を避けて主要施設を置けるよう、基準点となる塔を湧水から300m南に離してある。

崖線・湧水・東山道は動かすことができないが、任意に動かせる塔の場所を動かすことによって、寺院地の中に取り込みたいものを取り込めるように塔位置を決定、塔を基準点として全ての配置が決定されている。

尼寺を含む寺域全体を見渡すと、西の黒鐘の谷戸から東のリオン下湧水まで扇状に取り巻く崖線の連なりが横長に取り込まれ、塔と黒鐘の谷戸の間の広い空間に主要施設が配置されている。寺域に取り込まれた湧水を守るため、涵養域として重要な崖上まで確保されている。また僧寺は崖下の湿地帯を避けて主要施設が配置できるように南北の距離がたっぷりととられている。(尼寺はそうではなく、選地に無理が見えるが)

この結果、武蔵国分寺の敷地は東西に900m以上、南北に600mという広大なものとなり、諸国国分寺のどこにも似ていない国分寺となった。寺域の中には、この地の優れた自然景観「好処」がすべて取り込まれており、それを背景として建造物が絶妙に配置されている。「必ず好処を選べ」という聖武天皇のコンセプトが見事に実現されたというわけだ。

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28.武蔵国分寺プランの独創性 [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅵ.今も生きている都市計画

28.武蔵国分寺プランの独創性
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塔と中枢部が他に類例を見ないほど非常識なまでに離れていることがいつも問題になってきた。しかし類型にあてはまらないことはそんなに問題なのだろうか。類型というのは後年作られたものだ。諸国国分寺建立の草創期において「塔が離れすぎているのは非常識」という常識があったかどうか、はななだ疑問だ。むしろ武蔵国分寺プランは、地域特性にマッチするよう精緻に練り上げられた都市計画なのではないだろうか。

国分寺造営は天皇杯コンペ?
武蔵国分寺は諸国国分寺のどことも似ていない、優れて独創的な寺院だということがわかってきた。もっとも他の国分寺同士もあまり似ていないものが多い。それぞれの地域の実情に合ったものが工夫され、またそうすることが求められたのだろう。
六十余の諸国に巨大タワーの出現を思い描いた聖武天皇の発想自体が、思えばあまりにも荒唐無稽だ。聖武発案の国分寺建立プロジェクトとは、天皇杯をかけた壮大なコンペティションだったかもしれない。
天平時代は優れた文化が海外から流入した刺激的な時代であった反面、災害や飢饉や疫病が蔓延し政情が不安な辛い時代でもあった。疲弊した諸国の民衆にとって、国分寺建立の大プロジェクトに借り出されることは、迷惑この上ない苦行だったに違いない。しかし反面、帰化人の入植が盛んで有力な豪族がひしめきあう武蔵国においては、このコンペに熱心に取り組もうという気運がたかまっていたのではないだろうか。
諸国国分寺の造営プランは中央からモデルプランが示されたと言われるが、そうだろうか。それに従ったにしては武蔵国分寺はあまりにも独創的だ。筆者は地元住民なので武蔵国分寺跡は日常の散歩道だ。遺跡地図と磁石を携えて寺院地のロケ-ションを確かめて歩くことはまことに楽しく、自然景観を巧みに取り込んだロケ-ションは、見れば見るほど精緻で美しく感動的だ。そして、これは1200年前の道筋なのではないかと思える場所が意外なほどたくさんある。地域特性にマッチするよう精緻に練り上げられた都市計画は、途方もなく長持ちであることに気づかされる。

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