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26.「もうひとつの七重の塔跡」の存在から見えてきたこと [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅴ.もうひとつの七重の塔

26.「もうひとつの七重の塔跡」の存在から見えてきたこと
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礎石が固め置かれたそばに土地の高まりが見え、古くから「何かある」と言われてきた場所に、21世紀の初頭、レーザー探査をかけたところ塔の基壇が発見された。掘ってみると傑出した出来ばえの版築が出現。しかし、基壇の上に塔が建てられた痕跡がみつからない。精魂を傾けられながら放棄された「もうひとつの塔跡」の存在は、塔が本来あるべき場所を物語る。これこそ長年の謎を解く大発見だ。

福正の仕事について考える
24項と25項で、もうひとつの塔跡が作りかけのまま断念された時期と理由を、①草創期と仮定した場合と②再建期と仮定した場合について考えてみた。

草創期と仮定するためには、尼寺併設令が出た後も一体的計画が打ち出されないまま、相当長らく建設が続いていたことが前提となり、また、発掘調査の結果、数少ない出土品は創建時の仕事でないことを示すものばかりだったことから、可能性は極めて低い。

そうなると「元の塔の焼失後、在任中の国司のもとで焼失塔の隣りに基礎工事が行われたが、国司が任期満了で帰京するとともに再建計画は頓挫、そこに壬生吉士福正が願い出て正しい場所に再建した。」という村山光一先生の再建時説が断然有力だ。もっとも、焼失塔の隣りに再建を試みたのは福正自身、作り直したのも福正自身である可能性はあるかもしれない。

なお国分寺市教委は、東大寺のようなツインタワーであった可能性をまだ捨ててはいない。なるほど、福正の財力と発想をもってすればあり得なくはない。しかし、塔の中心と中心がたった55mしか離れていない2基の塔が並び立つ景色はどう考えても美しくない。願わくば福正さん、これだけは勘弁してねと言いたい。

ところで塔跡2には今日まで土壇の高まりが残っていたらしいが、福正が隣りの立派な土壇を利用しなかったはずはない。基壇は化粧直しされて舞楽を奉奏する土(石)舞台として活用されたのではないだろうか。基壇西側から憧竿(どうかん)の穴が見つかっている。東側の調査はこれからだが、左右対象な場所から憧竿跡が見つかるのではないかと期待している。


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