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武蔵国分寺はなぜここにあるのか~国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代」を受講して(2010年11月3日-2) [コラム]

文化の日、いずみホールで行われた国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代-日本の古代道路とその保存・活用-」(国分寺市・国分寺市教育委員会主催)の続きです。素晴らしい基調報告を行った、ふるさと文化財課の小野本敦さんのお話、四小跡地の東山道武蔵路関連遺構として表示されることになっている「特殊遺構」についての報告については、こちらにレポート:
http://musashi-kokubunji.blog.so-net.ne.jp/2010-11-04

小野本さんの報告に続いて、近江俊秀先生(文化庁記念物課文化財調査官)、佐藤信先生(東京大学大学院教授 古代史)の講演も大変聞きごたえがあり、面白かったです。いただいたレジュメも、貴重な資料が満載!

近江俊秀先生は、そのお名前から近江の方なのかと思ったら、宮城県のご出身だそうです。奈良県立橿原考古学研究所に長くいらして、奈良の研究者が皆、邪馬台国やら古墳やらの研究をしている中、近江先生はただ一人、ひたすら道(古代道路)の研究をなさってきたとのこと。奈良では道についての講演をしてもさっぱりウケないけれど、国分寺のいずみホールが満席ぎっしりなことをたいそうお喜びでした。
宮城出身の方が奈良でただ一人、道の研究を続けてこられたのは、中央と地方の関係、東国や東北など中央から見た辺境との関係に最大の関心がおありで、それを結ぶ道の研究をなさっているのかな、と思いました。

ご講話の内容は、古代官道はなぜ、まっすぐで広いのか、いつごろ、何の目的でこのようなものが作られ、どのような機能があったのか、というお話でした。
七道駅路の道路網は7世紀後半の天武天皇の発案により、律令制度の完成と中央集権の確立を目指し、中央と地方を結ぶ全国的な道路網として敷設されたもので、古代道路の総延長は6300キロメートルにもおよぶのだとか。これは、田中角栄の「日本列島改造論」の時代に建設された第一期高速道路網のうち、北海道を除く総延長6500キロメートルに匹敵するとのこと。

まっすぐで広い道の役割は、外国からの使者に対して立派な道路をみせつけることで国力を示すこと、都と地方を結び租税を最速最短で運ぶことなどの他、直線の道路に沿って農地を条理の区画で開墾することで生産性を高め、租税を確実に徴収する役割もあったとのこと。つまり、道路整備は農業基盤整備と一体であり、これはまさに、天武天皇の「日本列島改造計画」であった、というお話でした。

続いて佐藤信先生のご講和。テ-マは「東山道武蔵路と古代東国」。
倭の王権が東国(関東)に勢力をのばす過程において東海道や東山道が形成され、東国は倭王権の軍事的基盤であった。772年に武蔵国は東山道から東海道に所属がえになったけれど、それ以前も以後も、武蔵国はもともと東山道と東海道を結ぶ橋渡しの場所であった。東国は倭王権の軍事的基盤であったことによって過重な負担から関東が疲弊し、そのことが原因となって関東に武士集団がおこった、など。

武蔵国の国府が、東山道の本道に近くて強大な勢力を誇っていた北武蔵ではなく、本道から遠く離れた南武蔵に置かれたのは不思議なことですが、北武蔵と南武蔵の勢力争いとして起こった「武蔵国造の反乱」において、大王の力を得た南武蔵が勝利したことで南武蔵に屯倉(大王直轄領)が置かれ、そのことが国府誘致につながったというお話も大変興味深いものでした。

南武蔵に国府が置かれなければ、「武蔵国」の国分寺は別の場所に建立されることになったはずです。
武蔵国分寺はなぜここにあるのか、というテーマを考える上でも、大きなヒントをいただいた講座でした。
「武蔵国造の反乱」において南武蔵が勝利しなければ、南武蔵の郡衙につながる道はあったとしても、官道としての東山道武蔵路が敷設される理由がなかった、ということが言えるのかもしれません。

東山道武蔵路という官道が、北武蔵と南武蔵の間のすさまじい誘致合戦、あるいは戦闘の末にようやく引っ張ってきた道だとすれば、天皇のお膝元たる南武蔵の権威の象徴である「武蔵国分寺」は、広くまっすぐで天皇の居る都へと続く東山道武蔵路沿いの、必ずや道路に接した場所に建てられなければならなかったのではないでしょうか。

741年の国分寺建立の詔を受けて、最初に塔を中心とした寺院地が区画されたとする「古寺院地区画溝」は、東山道武蔵路からなんと150mから200mも離れています。東山道に接する区画溝は後年になって掘られたものだとするのが定説になっていますが、そうなると、武蔵国分寺の当初寺院地区画を東山道から離した理由がわからない。

それよりも、武蔵国分寺の区画設計は、はじめから寺院地の北西と南西の角が東山道に接するように計画され、「古寺院地区画溝」は、僧寺と尼寺をわける溝と考えたほうが合理的なのではないか、と思うのです。
つまり、当初は東山道の東側に接するように、七重の塔と僧寺と尼寺がすべてセットで計画されていた。それがなんらかの理由で(おそらくは、尼寺が固有の湧水と薬草等を栽培する広い敷地を必要としたという理由などで)尼寺を東山道の西側に遷し、東山道の東側には僧寺と修理院(僧寺・尼寺共通の鍛冶工房)を併設するよう設計変更が行われたのではないか、と筆者は考えています。

東山道武蔵路を南武蔵まで引っ張ってくるまでの経緯を考えると、南武蔵の権威の象徴である「国分寺」を東山道から切り離して設計するはずがない。はじめから東山道に接する場所に設計されていなければならなかったはずです。
ましてや、四小跡地の東山道遺構から、疫神を退散させる祭祀の痕跡らしきものが出てきたとなれば、道は「通路」であるだけでなく、聖域と外界を隔てる「結界」として機能していたことが伺えます。
こうした祭祀が平安時代になってにわかに始まったと考えるよりは、武蔵国分寺ははじめから、結界としての東山道武蔵路に寺院地の角を置くように設計され、後の設計変更においてもその設計原理が踏襲されたと考えるべきではないでしょうか。
こう考えるひとつの傍証として、尼寺の寺院地は、東山道武蔵路には一箇所も接していないのです。

武蔵国分寺跡全体地図カラ-.JPG



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