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23.もうひとつの七重の塔が出てきた! [武蔵国分寺の不思議を探る(テキスト版)]

Ⅴ.もうひとつの七重の塔

23.もうひとつの七重の塔が出てきた!
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七重の塔は国分寺建立の詔(741年)から20年ほどで完成、835年、神火(落雷)により焼失、その10年後(845年)に同じ場所に再建され、1333年に武蔵国分寺炎上とともに焼失」というのが定説とされていたが、2003年度からの国分寺市の調査で、現存遺構の約55m西の地点から「もうひとつの塔跡」が発見された。

作りかけのまま断念された塔?
「もうひとつの塔跡」(塔跡2)が発見されたことで国分寺市は「すわ、創建塔か」と色めき立った。

従来からの塔(塔跡1)と金堂が200m以上も異様に離れているため、創建塔はもっと西寄りにあるのではないかと古くから言われていた。塔跡の西の墓地に5個の礎石が固め置かれていることが古くから知られており、そこが創建塔跡ではないかと言う説もあったが、昭和39年の塔跡発掘調査の際、基壇外周に焼けた瓦の混じった粘土で固めた補修痕や、心礎以外の礎石の据え替えの痕跡がみつかったため、落雷で焼けた創建塔の場所に再建されたとの見方が定説となっていた。

今回、もうひとつの塔跡が発見されたのは、礎石が固め置かれている墓地のすぐ南側だった。「もし創建段階の塔なら、中枢部との距離は相応」との見解も出されたが、塔跡1より55m西寄りとはいえ、金堂と塔跡2の距離は150m以上だ。遠いことかわりはない。

塔跡2からは立派な版築が出てきたものの出土品が極めて少なく、心礎の抜取り穴は見つかったものの石はなく、礎石も根石も礎石の抜取り穴も基壇の上には残っていなかった。基礎工事が行われたものの上物がのせられることなく断念されたもののようだ。その上、数少ない出土品においても、版築土中から瓦が出てきたり、再建期の土器が出てきたりで、草創期の遺構である可能性は低い、というのが現在の市教委の見解だ。

だが、時期はいつであれ、金堂よりに作りかけたものが断念されたことの意味は重い。七重の塔の場所は、どうしても塔跡1の場所でなければならなかった。それがはっきりしたのではないだろうか。

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